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wourd historyのブログ

特に歴史についての記事載せています。不定期ですが記事を載せていこうと思っていますので興味ある方はぜひ読んでみてください<(..)>

宮古島島民遭難事件(みやこじまとうみんそうなんじけん)について

宮古島島民遭難事件とは、日清修好条規の結ばれた1871年(明治4年)に琉球王国首里王府に人頭税が課されていた宮古八重山は年貢を納め、1871年(明治4年)10月18日那覇を出港し帰途についた。風がやみ一時、慶良間諸島に停泊していた、そして同月29日に出港したが強風に遭い宮古の船2隻のうち一隻は宮古島にたどり着いたが、もう1隻が台湾近海で遭難し、台湾東南岸の高雄州恒春郡満州庄九柵に漂着した。漂着した69人のうち3人が溺死(1名は高齢のため脱落説あり)、残りの66人は無事上陸した。山林の中の人家にいって食べ物を与えてもらい安心していると、その家の男達から所持品を奪い取られ、着物を剥ぎ取られてしまった。その家から出て行くと、45人の武器を持った生蕃人がついてくるので、一軒の老婆の家に隠れていると、生蕃がそれを探知して、雲の如く集まってきて、着ていた衣服を残らず剥ぎ取った上に、54人を門外に引き出して殺害した。残りの11人は、土民の楊友旺という人の家に保護されて命拾いをし、あと1人は山中に逃げ込んだところを生蕃に見つかって、まさに首をとられようとしたとき、楊阿和、楊阿二、宗国升という人たちが駆けつけ、これをとどめ、蕃銭四十五員、布六反、牛一匹を生蕃に与えて、この1人と、楊友旺の保護している11人を合わせて12人を救った。この12人は、台湾府に転送され、火輪船(汽船)で福州まで送られ、そうして接貢船によって、那覇に帰り着くことが出来た。これが宮古島島民遭難事件の内容である。現在の日本史教科書では、「琉球漂流民殺人事件」と記述されている。台湾では遭難船が到着した場所に因み、「八瑤灣事件」(はちようわんじけん)あるいは「台湾出兵」と一連のものととらえて「牡丹社事件」と称する。だがこの事件にはもう一つの説がある。それは台湾に遭難したのは宮古島島民ではないということだ。中山世譜によれば、与那原村の謝敷筑登之親雲上(じゃしきちくどのぺいきん)所有の十反帆馬艦船1隻がその春、赴くために、島の役人5人、そのお伴43人、乗客が十人、船員が20人の合計69人を乗せ、那覇港を出発し台湾に遭難した。という説である。だがこの事件の被害者の墓が沖縄本島那覇の波の上護国神社にあるのでこの説が無いとも言い切れないと私は思う。                           日本政府は、事件に対し清朝に厳重に抗議したが、原住民は「化外の民」(国家統治の及ばない者)であるという清朝からの返事があり、これにより、日本政府は1874年(明治7年)、台湾出兵を行った。

沖縄の社会問題について

沖縄の社会問題として基地問題がある。現在でも沖縄独自の問題として度々本土のニュースとしても取り上げられているが、実際沖縄のイメージとしては政治的なイメージである「基地」や「平和」といったイメージは薄れて、「南国」や「癒し」といったリゾートのイメージが表向きになりつつある。沖縄は唯一の地上戦が展開された場所でもあり、当時の住民の4人に1人が亡くなるほどの激戦が繰り広げられた。終戦直後の沖縄は米軍に占領され、基地も建設されて元々そこに住んでいた住民は追い出された。基地はベトナム戦争のときに枯葉剤や有毒物質といったものが県内に持ち込まれていたことも発覚することもあり、その他米軍関連の事件も頻発し、住民は危険と隣り合わせであった。そういう意味で「基地」という社会問題があった。「平和」というワードについては地上戦を語り継ぐ平和関連の資料館や施設、戦争体験者による語り部としての存在6月23日の慰霊の日といったことが象徴とされる。沖縄ではこういったイメージが捉えられている一方で、沖縄の魅力としても取り上げられる「青い海」、「白い砂浜」といったくつろぎをイメージさせる観光目線のイメージも強い。沖縄県は1972年に本土復帰を果たし、その記念事業として行われた沖縄国際海洋博覧会があった。その際観光事業が盛んになり、沖縄に訪れる観光客は増加した。しかし、海洋博の影響は一時的なもので県の予想の経済収入を下回る結果となった。他にも9.11同時多発テロが起きたことにより基地をもつ沖縄のイメージは悪化したことも過去にあった。こういった環境の中で適応した形で観光事業も力を入れ、イメージの改善を試みた。結果的に観光的な意味でのイメージは改善され、現在では国内有数の観光地となっている。そういった意味合いで沖縄は政治的なイメージと観光的なイメージを両方併せ持つ地域である。現在「基地」や「平和」といったイメージが薄れ、若年層での関心が遠のいているが、それを引きとめ地元の人たちから関心を持たせ、政治的なイメージも幅広く知ってもらうことが大切である。

戦跡保存について

激しい地上戦を繰り広げた沖縄には戦いの爪跡として県内各地に数々の戦跡が確認されている。その中でも地上戦で使用された司令部壕、砲台跡、トーチカ、住民の避難に使用された壕などが発見されている。他にも沖縄戦以外の遺跡も発見されるなど沖縄は遺跡の島といえる存在である。そういった遺跡の残った島では戦後から徐々に復興の過程や過去の記憶を思い出すといった事情もあり、遺跡の減少が続いた。しかし1960年代から観光目的として戦争遺跡の保存活動が最初にはじまった。1970年代になると戦争体験を実際に見たり感じたりして追体験をする戦跡めぐりや戦争体験者の住民の証言をまとめた資料などの編纂がはじまった。その後戦争の遺跡保存に努める団体が活動を行うなどした。1994年以前のほとんどの戦跡は文化財保存の基準に達していなかったために指定の対象外とされていたが1995年の広島原爆ドーム文化財指定に向け国が基準を改正したため現在では文化財指定の遺跡は増加していっている。感想としては、沖縄戦を通して平和を語るには戦跡と体験者の証言が当時の状況を知るのに適しているが、年々体験者は老化に伴い語り部が減少していく一方である。そうした現状を踏まえつつ体験者の証言の収集を加速させより多くの情報を保存することや、戦跡の老朽化も考えられるので早急な対応が求められている時期である。

瀬長亀次郎

瀬長亀次郎は沖縄県島尻郡豊見城村我那覇で誕生する。1963年に執筆した彼の過去の人生には彼を正しく導いた「三つの星」というものがあった。一つ目は母という存在であった。亀次郎は戦時中母と羽地村で生活をしていた。しかしもともと貧農ということもあり父は彼が三歳の時にハワイに出稼ぎにいっていた。彼はそういった家庭で育ち母の一生懸命生活をきりもりする姿を見て成長した。二つ目は恩師である。彼は当時市民のよって選ばれ那覇市長に任命されたことがあった。その際に彼はアメリカ民政府やアメリカの影響力を受けたものたちから姿勢干渉を受けた。彼が窮地に立たされたときに当時の恩師である松原多摩喜先生から手紙が送られてきた。七高で亀次郎は学業を続けることが困難だったときに援助してくれたが、在学時に社会運動を行って途中で退学となってしまう。その後亀次郎は刑務所へ服役しその時にあったのが最後であったが、今回新聞を通して亀次郎の消息を知り手紙をよこしたのであった。そのときにお世話になりそこで学んだことや亀次郎に対する教師としての愛情が彼の人生を支えてきた。そして三つ目の存在として人民党があった。彼は終戦後に県で人民党に所属していたが反米軍への活動などが米軍にとって目障りであったため人民党は弾圧を受けた。軍法会議にかけられ刑務所に収容された。しかし彼は釈放されて間もなくして那覇市長に任命されそこで改めて米軍との対立姿勢を鮮明に示した。これに対して米軍はついに府令を出して強引に亀次郎を市長の座から引きづり下した。この対応にもめげることなく彼は活動を続けた。これは彼が人民党から学んだことであり個人で闘うには限界があるが、人民党に所属し初めて集団で共闘することの強さを知った。こうして彼は戦後沖縄を占領して統治する米軍が県民の人権を侵害や戦争の島としての活動を止めさせるべく不屈の精神で活動を続けた人物であった。

俗信とは

俗信とは兆や禁、占、呪といった領域とされ、言い伝えなどのことをさすとされている。俗信理解をするにあたって大事なことは説明であり、人の原因不明の病や不思議な現象が身の周りで起こると人間は「なぜだろうか?この出来事には何らかの原因がある」といったような考えをもつ。そのような状況を理解するのには説明が必要であるとされた。梅屋潔はこうした象徴概念は「合理的に埋葬されうるか?」と考えた。しかし佐渡島の例のようにこの俗信が合理的な答えで解決してもその当の人々にとってはそのことはそんなに問題視されていないように象徴概念は合理的な解決に至らないことがわかった。俗信の象徴的関連として受験生に対して「滑る」や「落ちる」といった言葉は直接的な関連性はないが縁起が悪いとされタブーな言葉と認識されている。占いなども俗信にあてはめて考えることができるが、なぜ占いがなくならないのかというと呪術ブームや社会不安などからくる不安解消の矛先として占いはなくならないと考えられる。

山田真山の生涯

今からおよそ130年前の明治18年(西暦1885)沖縄県那覇市に五男の末っ子として生まれた。元服以前は童名を真山戸、呼び名を兼慎といった。彼ら一家は廃藩置県後の失業した士族で編成された強制移民により、沖縄県八重山郡石垣市に移住することとなった。しかし、廃藩置県後の人々の中でマラリヤが流行し、その影響で父が亡くなった。その後一家は再び兄兼用の勤める西表島へ移り住むこととなった。9歳の鉱山で汽船の模型を作って遊んでいたところ、小野半次郎という男に立派な大工の棟梁になると才能を見込まれて養子となり東京へ上京することとなった。建築切り込み場で働いていたが、ある日柱に彫刻をして養父の怒りをかい絶縁することとなった。そこから彼は画家になることを決心し、学費を稼ぐために働いた。そして東京美術学校に入学するべく山田泰雲、高橋光雲に教示を受け、見事に合格・卒業し、明治40年に清国北京芸徒学堂教授となった。その後彼は沖縄に帰郷し、優れた工芸品などを含めた文化の向上のために民芸品の復元に戦前戦後力を入れ、人々を指導した。

第二次世界大戦が始まると彼も日本軍の徴用を受けるようになり、壕堀りの作業を行うようになった。米軍の上陸後は食糧難でどうにもならなくなり、避難民を代表して降伏した。その後芸術に理解のある米軍のハンナ、ワトキンという人物に誘われ石川市東恩納市に移り住み、そこで野崎女史の協力の元、東恩納博物館が完成した。ある日、彼のことを知った「デイリーオキナワ」の記者に連れられ、そこから新聞に掲載する絵を描くこととなった。彼はこうして米軍記者と交流を重ね、沖縄のことを理解した記事なども書かれるようになり沖縄をとおした日本本土の名誉や日米の親善などに尽力した。

昭和32年平和慰霊像の建立にかかり、自宅の庭内に平和慰霊像原型制作のためのアトリエを設けた。彼は原型製作に日夜没頭した。そして20年の歳月が経ち、慰霊像の原型をほとんど完成させ、昭和52年に92歳でその生涯を閉じた。

薩摩侵攻以前の薩摩藩と幕府

徳川幕府は、豊臣秀吉朝鮮侵略後、明との日明国交を優先する対明政策を推進した。そのため、日明交渉の仲介役として明を宗主国と仰ぐ琉球に期待した。このような対明政策の過程で、1609年に薩摩藩を通じて琉球を征服した。薩摩が支配に乗り出した表向きの理由については、薩摩と共につとむべき雑役を怠ったことによるものとなっている。

薩摩藩は1611年に掟15か条を初めとする琉球支配の方針を定めた。薩摩藩は当初、琉球の諸制度を改めて琉球を日本に同化させることを考えていたが、幕府の対明政策が進展しなかったため1615年から琉球に固有の政治形態と風俗を認める異文化政策に方針を転換し、1642年に確立した。これは明との国交を確立できなかった日本にとって琉球と明との冊封朝貢関係が日明をつなぐパイプとして重要視された。

1602年陸奥国伊達政宗領に琉球船が漂着した。琉球人は伊達政宗によって江戸に送られ、幕府はこれを大阪に送って島津忠恒(ただつね)に引渡し、琉球への送還を命じた。翌春、薩摩は琉球人を送還し、国王尚寧に家康への謝礼の使者を派遣するよう要求した。家康は1603年征夷大将軍に補任され江戸の幕府を開設するが、琉球に対する来聘問題は、新たに成立した武家政権徳川幕府を対外的に認知させる意図も含まれていたと考えられる。しかし、尚寧は聘礼の使者を家康に派遣しなかった。当時首里王府内に国王を批判する動きがあり、それが尚寧として家康の来聘に応じなかった理由だろう。もう一つ、来聘要求の中で、1604年、島津氏が尚寧に対して、琉球の送還が命じられたのは、「琉球之儀者薩摩附庸之間」と「附庸」説を唱えたことも、琉球に来聘を躊躇させた理由ではないかと考えられている。

 薩摩藩は来聘問題を打開するため、1606年、鹿児島で琉球の大島(奄美諸島)に出兵する談合を開いた。しかし、島津義久が主立った談合衆を伴って南林寺・談合所へ詣でて談合を欠席したばかりでなく、その他の談合衆も午前に出かけて日没前に帰ってくるのでこの談合はほとんど進行がなかった。島津忠恒は徳川家康に大島出兵の許可を求める手段に訴えて、許可が下りた。

 幕府と薩摩藩は1606年に明の皇帝が尚寧を琉球国王冊封した機会をとらえて、琉球を介した明との勘合交渉を模索し始めた。こうなると、ますます琉球を来聘させる必要がでてくる。その後も来聘交渉は難航した。1608年、琉球より自徳・宜保親雲上の両使が薩摩にやってきた。このとき薩摩は来聘交渉に見切りをつけ、徳川家康に指示を仰いだ。それに対し家康は、「琉球出兵の軍勢を動員してもよいが、出兵前にもう一度琉球に使者を派遣して来聘を促し、それでも琉球が応じないならば家康の同意を得て出兵してもよろしい」と薩摩に回答した。その後島津家久は二使を琉球に派遣し来聘を促した。しかし、二使は三司官の謝名利山にからだよくあしらわれ使命を果たせず帰国した。そのため、薩摩はやむを得ず数戦の軍勢を派遣して琉球を討つこととなった。