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wourd historyのブログ

特に歴史についての記事載せています。不定期ですが記事を載せていこうと思っていますので興味ある方はぜひ読んでみてください<(..)>

薩摩侵攻について

1609年ついに薩摩侵攻の行動が始まる。薩摩の『旧記雑録』に琉球王への書状があり、亀井一件に始まる琉球の一連の無礼についての責任が問われ、家康からの『琉球誅罰』御朱印が下ろされ、出兵の準備の整ったことを意味していた。「貴方(琉球国王)が悔いを改め、日明の貿易の仲介を果たすのであれば、貴国の安泰を約束する。」という内容が記された最後通牒であった。しかし、これは書状案であり、実際に琉球へ発送されたかは明らかではない。それは出兵を渋る幕府へのアリバイ工作だった可能性もあった。その5日後薩摩軍は家久家老の横山権左右衛門久高を総大将、義久家老の平田太郎左衛門増宗を副将として鹿児島を出航した。前年に定めた『琉球渡海条々』では、出兵数は1500人だったが、実際に出兵したのは『島津国史』によると、3000人余りと記されていて倍となっていた。

 元々薩摩が琉球に侵攻したのは、本来幕府の機嫌をとりむすぶためのものであった。そのため捷報が入ると早速これを江戸へ報じている。すると将軍秀忠や大御所あるいはその重臣から慶賀の手紙がやってきた。それだけにとどまらず、家康からの黒印状があり琉球国の領有を認められた。こうして島津家久は尚寧を伴って江戸へ上京し、徳川家康に謁するため向かうこととなった。王の家康へ進上し、家康もまた、尚寧王を臣下として扱わなかった。尚寧王の伏見から江戸間での道中は、すべて朝鮮の勅使が来たときと同じ扱いであった。すなわち外国の使節と同じ待遇でもてなされたということになる。琉球からは以後、将軍の代替わりには慶賀使、琉球王の代替わりには謝恩使の「江戸上り」定例となった。

コザ暴動

コザ騒動は1970年12月20日深夜1時ごろコザの街で起こった事件だ。最初、軍雇用員の翁長清一さんが京都ホテル前の24号線を横断中、米陸軍所属ジェームズ・R・ハロルドの運転する乗用車にはねられた事故が発端となっている。数分経ち事故処理に米憲兵とコザ職員がかけつけ事故調査をしようとしたが、周囲でみていた沖縄住民は同年9月18日に起きた金城トヨさんれきさつ事故の無罪判決の問題のこともあり、「今回の事故調査もデタラメにするのだろう」と非難し、憲兵の事故調査を拒んだ。最初5,6人であった市民も事故の現場に集まりだんだん数はふくれあがった。憲兵は群集に「立ち去れ」と命令したが抗議する人は増加していくばかりであった。憲兵は事故の収拾を図りピストルで威嚇発砲したところ群集は激怒し、ついに憲兵の車に放火して始まった。群集は軍のナンバー車両や憲兵の車両を次々に放火、乗っている人などは車からひきずりだされるなどして焼き討ちされた。午前4時頃には群集は4千人を越え、事故現場を境にし諸見方面と、コザ第二ゲートへ向かって「ヤンキーゴーホーム」などを叫びながら行進を続けた。この騒動で計75台の米軍関係者の車両が炎上し、住民19人が逮捕された。

ハインリッヒ・シュリーマンの生涯

シュリーマンはドイツ出身で、父がプロテスタントの説教師で母は9歳の時に亡くなった。13歳に小中一貫校に入学するが、貧しさで14歳の時に1836年に退学して食品会社で働くことになった。

その後オランダで貿易会社に入社して、1846年サンクトペテルブルクで商社を設立した。翌年にロシア国籍を取得1852年の時ロシアの女性と結婚する。ゴールドラッシュの時期になるとアメリカに移ってサクラメントで商社を設立してそこで資金を増やした。クリミア戦争でもロシアに武器を密輸入し後の発掘の資金となった。

その後複数の大学に学び、ギリシアで17歳のギリシア人女性ソフィアと結婚した。彼女もトロイアなどの発掘調査に関わった。

1870年オスマン帝国政府(現トルコ)の許可を得てついに幼いころからの夢であったトロイア遺跡の発掘を開始した。これが考古学の始まりであった。1873年に「プリモアスの財宝」という宝を発見し、伝説のトロイア遺跡発掘の話題は広まることとなった。プリモアスの財宝はオスマン帝国の許可を得ず無断でギリシアのアテネまで持ち出され、1881年「ベルリン名誉市民」の功績と引き換えに寄贈された。他にも1876年にミケーネで「アガメムノンの黄金マスク」を発見し、更に1884年にはティリンスの発掘に着手した。1890年に旅行先のナポリの路上で急死し、自宅のあったナポリで埋葬された。

トロイヤ文明発掘の遺跡

ギリシャの吟遊詩人ホメロスの作品である「イーリアス」を読んで感動したのがきっかけとなっている。当時はトロイア戦争ホメロスの空想の物語だとされていて、トロイアの実在しないものだという主張が根強かった。そのためシュリーマンの「トロイアは実在する」という主張は根拠のないものだった。彼は発掘調査を自費で行うため貿易などの事業に励みながら、一方で「イーリアス」の研究と古代ギリシャ語の勉強に励んだ。発掘調査で必要な資金が貯まると、1865年41歳のときに事業をたたみ、世界旅行で中国(当時は清朝)や日本(幕末の江戸)も訪問した。考古学をフランス、パリのソルボンヌ大学、ドイツの最も古い大学の一つ、ロストック大学に学んだ。後に「イリーアス」を熟読した結果、トロイアの都市の位置はトルコの西岸ダーダネルス海峡の入江のエーゲ海に面した、ヒサルルクの小高い丘にあると推測した。

トロイヤ遺跡発掘のきっかけ

ギリシャの吟遊詩人ホメロスの作品である「イーリアス」を読んで感動したのがきっかけとなっている。当時はトロイア戦争ホメロスの空想の物語だとされていて、トロイアの実在しないものだという主張が根強かった。そのためシュリーマンの「トロイアは実在する」という主張は根拠のないものだった。彼は発掘調査を自費で行うため貿易などの事業に励みながら、一方で「イーリアス」の研究と古代ギリシャ語の勉強に励んだ。発掘調査で必要な資金が貯まると、1865年41歳のときに事業をたたみ、世界旅行で中国(当時は清朝)や日本(幕末の江戸)も訪問した。考古学をフランス、パリのソルボンヌ大学、ドイツの最も古い大学の一つ、ロストック大学に学んだ。後に「イリーアス」を熟読した結果、トロイアの都市の位置はトルコの西岸ダーダネルス海峡の入江のエーゲ海に面した、ヒサルルクの小高い丘にあると推測した。

祖先祭祀

柳田邦夫の祖霊論の先祖祭祀によると「日本人の神は祖霊である」と定義した。祖霊とは死者が死後に子孫により祭祀され続けることにより祖霊へと変化していくとされている。祖霊は生前の個人としての存在ではなくある抽象的な集合体であり、儀礼においては神格化されて祀られる。祖霊は世間で信仰されているようなご利益を授けるような意味あいをもち機能的な役割を担う機能神ではなく、子孫を守護する神としての役割をしている。実際に祖霊の現世への一時の帰還をお祝いする盆行事などもある。折口信夫はこのような来訪神は日本人の神観念である「祖霊」に引き付けて考えた。この来訪神は祖霊だけに限らず死霊という存在も含まれている。

若頭組について

「イエ」とは他の文化で表される「家族」とはとはイコール関係ではない。喜多野清一の著書の一部によると「社会の成員であり生活の単位、また生死を超えた連続する存在」とされ、家業での経営、家系上での先祖を祀ることがこの「イエ」という定義である。イエでは女性はイエの将来にとって重要で裕福な家庭に嫁がせるのがよしとされた。そのような時代に配偶者を探す構造である若者組(現在:青年団)という集団が形成された。この集団は10代前半から結婚適齢期にかけた若者が所属し、加入には力試しとして力石や田植えなどの能力が試された。若者組の集団の集合場所としてヤドという施設があり、そこでは村の警備・学習・共同労働などの教育がなされた。若者組の機能的類型の例として近畿の宮座がある。それは一人前の大人になるための修行の場として宮座が設けられた。その後近代化として用いられた血縁関係はイエの形態とは異なったものであり、血を継承することが目的とされたが、日本のイエの形態では血の継承でなく、イエの継承が目的であった。そのために近代化として士族の血縁関係のような一部でのみ存在したルールを強引に適用しようとし失敗した。