wourd historyのブログ

特に歴史についての記事載せています。不定期ですが記事を載せていこうと思っていますので興味ある方はぜひ読んでみてください<(..)>

薩摩侵攻について

1609年ついに薩摩侵攻の行動が始まる。薩摩の『旧記雑録』に琉球王への書状があり、亀井一件に始まる琉球の一連の無礼についての責任が問われ、家康からの『琉球誅罰』御朱印が下ろされ、出兵の準備の整ったことを意味していた。「貴方(琉球国王)が悔いを改め、日明の貿易の仲介を果たすのであれば、貴国の安泰を約束する。」という内容が記された最後通牒であった。しかし、これは書状案であり、実際に琉球へ発送されたかは明らかではない。それは出兵を渋る幕府へのアリバイ工作だった可能性もあった。その5日後薩摩軍は家久家老の横山権左右衛門久高を総大将、義久家老の平田太郎左衛門増宗を副将として鹿児島を出航した。前年に定めた『琉球渡海条々』では、出兵数は1500人だったが、実際に出兵したのは『島津国史』によると、3000人余りと記されていて倍となっていた。

 元々薩摩が琉球に侵攻したのは、本来幕府の機嫌をとりむすぶためのものであった。そのため捷報が入ると早速これを江戸へ報じている。すると将軍秀忠や大御所あるいはその重臣から慶賀の手紙がやってきた。それだけにとどまらず、家康からの黒印状があり琉球国の領有を認められた。こうして島津家久は尚寧を伴って江戸へ上京し、徳川家康に謁するため向かうこととなった。王の家康へ進上し、家康もまた、尚寧王を臣下として扱わなかった。尚寧王の伏見から江戸間での道中は、すべて朝鮮の勅使が来たときと同じ扱いであった。すなわち外国の使節と同じ待遇でもてなされたということになる。琉球からは以後、将軍の代替わりには慶賀使、琉球王の代替わりには謝恩使の「江戸上り」定例となった。