wourd historyのブログ

特に歴史についての記事載せています。不定期ですが記事を載せていこうと思っていますので興味ある方はぜひ読んでみてください<(..)>

薩摩侵攻以前の薩摩藩と幕府

徳川幕府は、豊臣秀吉朝鮮侵略後、明との日明国交を優先する対明政策を推進した。そのため、日明交渉の仲介役として明を宗主国と仰ぐ琉球に期待した。このような対明政策の過程で、1609年に薩摩藩を通じて琉球を征服した。薩摩が支配に乗り出した表向きの理由については、薩摩と共につとむべき雑役を怠ったことによるものとなっている。

薩摩藩は1611年に掟15か条を初めとする琉球支配の方針を定めた。薩摩藩は当初、琉球の諸制度を改めて琉球を日本に同化させることを考えていたが、幕府の対明政策が進展しなかったため1615年から琉球に固有の政治形態と風俗を認める異文化政策に方針を転換し、1642年に確立した。これは明との国交を確立できなかった日本にとって琉球と明との冊封朝貢関係が日明をつなぐパイプとして重要視された。

1602年陸奥国伊達政宗領に琉球船が漂着した。琉球人は伊達政宗によって江戸に送られ、幕府はこれを大阪に送って島津忠恒(ただつね)に引渡し、琉球への送還を命じた。翌春、薩摩は琉球人を送還し、国王尚寧に家康への謝礼の使者を派遣するよう要求した。家康は1603年征夷大将軍に補任され江戸の幕府を開設するが、琉球に対する来聘問題は、新たに成立した武家政権徳川幕府を対外的に認知させる意図も含まれていたと考えられる。しかし、尚寧は聘礼の使者を家康に派遣しなかった。当時首里王府内に国王を批判する動きがあり、それが尚寧として家康の来聘に応じなかった理由だろう。もう一つ、来聘要求の中で、1604年、島津氏が尚寧に対して、琉球の送還が命じられたのは、「琉球之儀者薩摩附庸之間」と「附庸」説を唱えたことも、琉球に来聘を躊躇させた理由ではないかと考えられている。

 薩摩藩は来聘問題を打開するため、1606年、鹿児島で琉球の大島(奄美諸島)に出兵する談合を開いた。しかし、島津義久が主立った談合衆を伴って南林寺・談合所へ詣でて談合を欠席したばかりでなく、その他の談合衆も午前に出かけて日没前に帰ってくるのでこの談合はほとんど進行がなかった。島津忠恒は徳川家康に大島出兵の許可を求める手段に訴えて、許可が下りた。

 幕府と薩摩藩は1606年に明の皇帝が尚寧を琉球国王冊封した機会をとらえて、琉球を介した明との勘合交渉を模索し始めた。こうなると、ますます琉球を来聘させる必要がでてくる。その後も来聘交渉は難航した。1608年、琉球より自徳・宜保親雲上の両使が薩摩にやってきた。このとき薩摩は来聘交渉に見切りをつけ、徳川家康に指示を仰いだ。それに対し家康は、「琉球出兵の軍勢を動員してもよいが、出兵前にもう一度琉球に使者を派遣して来聘を促し、それでも琉球が応じないならば家康の同意を得て出兵してもよろしい」と薩摩に回答した。その後島津家久は二使を琉球に派遣し来聘を促した。しかし、二使は三司官の謝名利山にからだよくあしらわれ使命を果たせず帰国した。そのため、薩摩はやむを得ず数戦の軍勢を派遣して琉球を討つこととなった。