wourd historyのブログ

特に歴史についての記事載せています。不定期ですが記事を載せていこうと思っていますので興味ある方はぜひ読んでみてください<(..)>

山田真山の生涯

今からおよそ130年前の明治18年(西暦1885)沖縄県那覇市に五男の末っ子として生まれた。元服以前は童名を真山戸、呼び名を兼慎といった。彼ら一家は廃藩置県後の失業した士族で編成された強制移民により、沖縄県八重山郡石垣市に移住することとなった。しかし、廃藩置県後の人々の中でマラリヤが流行し、その影響で父が亡くなった。その後一家は再び兄兼用の勤める西表島へ移り住むこととなった。9歳の鉱山で汽船の模型を作って遊んでいたところ、小野半次郎という男に立派な大工の棟梁になると才能を見込まれて養子となり東京へ上京することとなった。建築切り込み場で働いていたが、ある日柱に彫刻をして養父の怒りをかい絶縁することとなった。そこから彼は画家になることを決心し、学費を稼ぐために働いた。そして東京美術学校に入学するべく山田泰雲、高橋光雲に教示を受け、見事に合格・卒業し、明治40年に清国北京芸徒学堂教授となった。その後彼は沖縄に帰郷し、優れた工芸品などを含めた文化の向上のために民芸品の復元に戦前戦後力を入れ、人々を指導した。

第二次世界大戦が始まると彼も日本軍の徴用を受けるようになり、壕堀りの作業を行うようになった。米軍の上陸後は食糧難でどうにもならなくなり、避難民を代表して降伏した。その後芸術に理解のある米軍のハンナ、ワトキンという人物に誘われ石川市東恩納市に移り住み、そこで野崎女史の協力の元、東恩納博物館が完成した。ある日、彼のことを知った「デイリーオキナワ」の記者に連れられ、そこから新聞に掲載する絵を描くこととなった。彼はこうして米軍記者と交流を重ね、沖縄のことを理解した記事なども書かれるようになり沖縄をとおした日本本土の名誉や日米の親善などに尽力した。

昭和32年平和慰霊像の建立にかかり、自宅の庭内に平和慰霊像原型制作のためのアトリエを設けた。彼は原型製作に日夜没頭した。そして20年の歳月が経ち、慰霊像の原型をほとんど完成させ、昭和52年に92歳でその生涯を閉じた。